Palm Pre発売に寄せて、モバイルを思う

昔からモバイル機器が好きだ。メモ術や情報整理術とも関係するが、一秒を争う頭の中からのアウトプットは、このご時世でも紙のメモ帳が一番速い。ただ、その編集はデジタルでなければやってられない。モバイル機器の在り方を個人的に振り返ってみた。

テキスト端末という視点から

Foleo*1の発売中止は残念に思った。実物の使用感は解らないが、些細な外出にも持ち歩ける軽量級だったとしたら惜しいガジェットだ。

キングジムポメラは、久々に物欲が刺激された。小型で、入力に特化してるところが良い。大昔、HP200LX+VZエディタ+ATOK 7でひたすらプチプチと入力していた頃に思いを馳せたが、最近はテキストをベタ打ちすることが少ないので思い止まった。

情報端末という視点から

Palmを現在も使用している。ただ、単体の便利アプリをいくつか使うだけの存在で、ほぼスタンドアローンである。

昔はスケジュールもPalmで管理していたが、現在はGoogleカレンダー*2に移行した。キーボードがないGraffitiモデルはテキスト入力に向かず、母艦とのデータのやり取りも面倒なので入力はしない。ストックが必要なメモは、携帯電話で入力して自分にメールする。

大昔、HP200LXに色々データベースも入れてたがあまり活用せず、エディタ以外のDOSアプリはあまり使わなかった。HP200LXのスケジュールは秀逸だったが、結局メインは紙のスケジュール帳だった*3

高機能モバイル≒超小型パソコンという視点から

VAIO Pは非常にいい線を行っている。昔Librettoをサブノートにしてた事もあり、スペック対サイズ比からの有用性が伝わってくる。今はPanasonicのB5サイズLet's noteを持ってるのでガマン。

で、Palm Preは

GoogleカレンダーなどのWebサービス連携機能だけでも欲しい。ネットに繋がって、少しばかりのテキストが打てれば、もう携帯電話を置換できる。後は、ソフトが出揃えば今使ってるPalmも要らなくなるかなあ。

近年、Palm社はPocket PC搭載のスマートフォンを作っているし、BlackBerryも国内キャリアから発売されて、既に上記を満たしてる気もする。自分がPalm Preに惹かれるのは、ジェフ・ホーキンス*4Palmブランドに期待しているからかも知れない。

早いこと攻殻機動隊の様な「補助電脳」を体内に内蔵する世の中になって欲しいのだが、それまでは便利な小型ガジェットを求めて渡り歩く生活が続くのだろう。

*1:キーボード付きで「テキスト入力に適する」という意味で。本当は下記の情報端末のカテゴリである。

*2:外出先では携帯電話でアクセスする。

*3:繰り返しの予定だけHP200LXに入れていた。

*4:「考える脳 考えるコンピューター」

後輩に、知識と体験を伝える

一線で仕事をしてるつもりなのだが、立ち位置的に、下に「教える」ことも仕事みたいになってきた。2年目で初めて後輩ができて以来ずっと我流でやってはきたのが、そろそろ適当では済まなくなってきた。

成人教育理論とかコーチングとか方法論は色々あって、かじった程度だから伝え方も上手でないのは確か*1。でも、「何を伝えるか」というコンテンツのところでいつも難しさを感じている。

特に「on the job training」の場面では、求められるのは経験や知識に基づいた具体的な判断と、具体的な方略。一方、教える側としては、バックグラウンドをすっ飛ばした「結論」は意味がないと思ってしまうから、くどい話、「教科書的」な抽象的な話になってしまう。恐らく流されていると思う*2

大学などには大抵「名物講師」がいて、催し物の様に人気の授業を担当している。名物講師にはその人たるネームバリューがあって、その人ならではの体験を伝えるのが技量なのだろう。一方、教科書的なことを上手に伝えるのが、予備校講師の技量。高校の頃「教科書に書いてることはしゃべらない。行間を教える」という先生がいて、自分はその授業が大好きだったけど、周りは寝てた。今思うと大学入試予備校としての高校ではなく、大学向きの先生だったのかも知れない。

研修医の頃の上司に「魚はやらない。魚の捕り方を教えてやる」と、ひたすら座学的な勉強につき合わされたことがある。すごく「できる」人だったので、当初は上司の時間を使って教科書的な勉強をするのがもったいないと思ったけど、膨大な座学のベースがあって、その上司の実践が生きてるのが滲み出ていた。今もその経験には感謝しているが、同じことを自分はできない。

数年後には放っておいてもその後輩が到達するであろうポイント≒今の自分から、目新しくもないことを教えるだけの簡単なお仕事をしつつ、何とか自分に「ネームバリュー」が付けられないかなと思う今日この頃。

*1:必用に迫られて絶賛勉強中…。

*2:自分が教わる立場だった経験を省みても。

ニンテンドーDSは、既に携帯端末になっている

観光地に出かけたら、ニンテンドーDSiで写真を撮ってる小学生ぐらいの子をちらほら見かけた。両手を前に突き出してニンテンドーDSを構えていて、最初は何をしてるのかと思ったけど、オブジェや建物の写真を撮ってたのであった。

これまで自分の中では、携帯ゲーム機を観光地に持ち込むというのは想定外であった。写真を撮っているのも、「後で写真を加工して遊ぶのかな」などと漠然と考えていた。

しかしそんな姿を何度も見かけるうちに、「自分がカメラ付き携帯電話でやってることと同じではないか」とはたと気づいた。彼らにとって、ニンテンドーDSは常に携帯する「ガジェット」であり、その「カメラ機能」で目に付いたものを撮っていただけなのだ。

連休中の混雑で、イベントをやってる周りには人だかりができていたが、みんなそれぞれコンデジ、一眼、携帯電話など何かしら構えて、実物を見ずに手元の画面を覗き込んでいるのは不思議な光景であった。その中に、ニンテンドーDSの画面を見ながら写真を撮っている小学生が混ざっていたのがまた新鮮だった。

一方、「写ルンです」がまだ現役で使われているのも目撃した。写真を頼まれたお姉さんが、フィルムを巻き上げるのを忘れてシャッターを押そうとしていて、時代の移り変わりを感じたのである。

体験を伝えるのに普遍化しようとすると陳腐になる

どの分野でも、バイブルと言われるテキストがある。先輩達はみんな読んでて、自分も勧められて読んではみても、抽象的なことばかりで実際どうするという段で使えないことがある。

ところが、後になってそういう本を読み返した時に、いちいち妙にツボに入ることがあって、当時の自分の未熟さを認識したりする。

学生時代、部活の飲み会に現れたOBの精神論に近いアドバイスを拝聴しながら、「現場を離れるとダメだな」と思っていた。今考えると、経験や教訓をシンプルに伝えようとすると、どうしてもありきたりな言葉に集約されてしまう気がする。

ある時たまたまカーネギーを読んでみたら、思ってたより普通でちょっと拍子抜けした。「当たり前なんだけど、この当たり前がなかなか出来ないんだよねー」という感想を持っただけだった。もしかしてと思い他の本もいくつか読んでみたけど、大体似たような感じ。

マルチ商法に関する俺の体験談を書く - sunomononanoの日記

特に自己啓発系のロングセラーでは、偉い人の言葉がシンプルに集約されて、「当たり前みたいな」陳腐な表現になってしまっていることがある。

逆に、OBや教師の説教で、シンプルにまとめるのが上手でない人は、話が長い。ただ、抽象化したまとめよりも、具体的な「経験」の方が聞く方にとっては大抵有用だ。

自分が教える立場の時も、汎用性とかを考えて気の効いたことを言おうとして、あいまいな表現になってしまうことがある。反省*1

*1:このエントリとか。

デジカメプリントで、フィルムカメラの終焉を感じた

先日、久し振りに印画紙にプリントした写真*1が必要になって、デジカメを持って写真屋に行った。前からデジカメプリントなるサービスがあるのは知っていたが、初めて利用してみた。

店頭の端末には色々なメディアに対応したカードリーダーが付いていて、そこに持参したSDカードを挿して画面から「デジカメプリント」を選ぶ。メニューには「ケータイからプリント」という機能もあったので、microSDか、赤外線に対応してるのかも*2

SDカードにある写真のサムネイルが表示され、そこからプリントしたい写真を選んで送信すると整理番号が印刷される。それをカウンターに出すと、10分程で写真ができあがった。画質も十分だ。

端末はマウス操作であり、駅の切符販売機ほどには「バリアフリー」でないのがネックと思ったが、居合せた60歳ぐらいのおばちゃんも使えていた。

数年前から、カメラ屋にもフィルムカメラはほとんど売っていない。一眼レフが少々生き残ってはいるが、コンパクトカメラは絶滅危惧種だ。

この転換は300万画素レベルのデジカメが普及した頃にはもう起きていたが、自分はどこかでデジカメは「デジカメ用途」と思っていた。しかし、撮影した「メディア」を写真屋に持って行ってプリントしてもらうという、旧来と同じ手続きがあっさり行われたのを体験して、実感としてフィルムカメラの終焉を感じた。フィルムの現像が近所でできなくなるのは近い将来という気がする。

デジカメプリント簡単だったよー、て話。

*1:一瞬「写真の出力」にあたる単語が浮かばなかった。以前、写真屋にフィルムを持って行き現像&プリントしてもらう一連のサービスを「現像」と言っていた。

*2:未確認。

専門外の人の「無知」を、専門家が責めるのは筋違い

新聞記事にはテンプレの様に識者のコメントが付けられているが、先日見かけたニュースの記事で気になるところがあった。

日光を浴びてはいけない「ポルフィリン症」のため、上半身を覆う黒い頭巾(ずきん)を着用していた鳥取県境港市の高校3年男子生徒(18)に対し、米子署員が職務質問の際に「お前は(アフガニスタンの旧支配勢力)タリバンか」と発言していたことが、6日の県議会で明らかになった。
議員の指摘を受け、佐藤幸一郎・県警本部長は「不適切だった」と謝罪した。

病気で頭巾姿の高校生に「お前はタリバンか」…警官が暴言

二人乗り自転車を見つけたアホな警察官が、黒頭巾の人をタリバン呼ばわりした、という至極どうでもいい事件だ。ここで皮膚科医の大御所がコメントする。

市橋正光・神戸大名誉教授(皮膚科)は「患者には日光を浴びないように黒い服を着るよう勧めている。タリバン呼ばわりは無知によるもので、憤りを感じる」と話している。

素直に読むと「ポルフィリン症を知らず、黒い服の人をタリバン呼ばわりした警察官の無知に憤りを感じる」と読める。善く解釈しても、「世の中には日光を浴びてはいけない病気の人がいて、黒い服で外出するので、黒い服の人を見たらそういう病気の人の可能性を考えるべき」ぐらいか。

だが、こんなレアケースを「無知」として非難するのはズレてる気がする。これが、警察官として具えているべき知識かどうか。非難されるべきは配慮に欠ける余計な一言であって、無知ではない。

上司が部下に「そんなことも知らないのか、馬鹿野郎」と言うのは良いが、コンサルタントが言ったらまずいだろう。専門家が外向きにする仕事というのは、その領域の事柄を担保することだ。「偉そうに教え諭す」のは専門家の仕事と認めるが、その専門家にとっての「常識的なこと」を知らないがために専門外の人を無能扱いするケースを時に見かけ、その度に辟易とする。

上記の記事において、「専門家」の筋違いなコメントのお陰で、記事全体の輪郭が不明瞭になってしまってる、てこと。

医者が病名をでっちあげると、その病名を保証することになる

先日ニュースで「高所平気症」という言葉を目にした。ベランダなどからの子どもの転落事故を扱った特集で、高層マンションで育った子どもに高さについての恐怖心が薄い傾向があることをその様に表現していた。

一般に、ある傾向を持つ集団が社会現象となったときに、「◯◯症候群」と言われることがある。流行語みたいなものなので別にどうでも良いが、それを医者が医者の立場で言うと意味が違ってくる。

医学的に「症候群」と言うのは、複数の症状がセットで出現し、(原因が明らかでなくても)偶然でなくひとつの原因で説明されうる(と考えられる)場合である。例えば、知的障害、先天性心疾患、特異的顔貌、低身長などの共通の特徴を生まれつき併せ持った「症候群」をイギリスのダウン医師が報告し、後に21番染色体のトリソミーが原因であることが判明したダウン症などは有名だ。

「症候群」を提唱するのには恐らく甘い誘惑があり、とりあえず気付いた時言っておけば、後に病名として確立されたときに「○○先生が最初に報告した…」と歴史に名が残る。上記のダウン先生然り、川崎病*1の川崎富作先生然り。

心理学者が言う「ピーターパン症候群」や「青い鳥症候群」などは微妙なケースで、既に定着してしまった感もあるが、あくまで社会現象に名前を付けたものと認知されている。一方、「○○という症状がある人は△△症候群」と医者が言ってしまうと、それが「病名」になってしまう可能性がある。

気になったのは、「高所平気症」とか言ってるのが評論家などでなく織田某という医者である点だ。これを次々とやられると、でっち上げの「病名」が、都合よく「患者」たることを保証することにならないか心配である*2

「私は青い鳥症候群だから仕事が続かないのは病気のせい(だから公的に援助すべし)」「うちの子は高所平気症だから、落ちたら怪我をする様な場所があるのが悪い」…。こんな話がネタであり続けることを切に望む*3

*1:別名、小児急性熱性皮膚粘膜リンパ節症候群。

*2:何十軒もドクターショッピングをした果てに「線維筋痛症」とか病名つけてもらって安住する人々の話とも少し似ている。

*3:これと似た様な話が、学校教育界隈ではモンスター某という形で現実に起きている様であるが。