専門医の質の維持は、患者の専門医指向の状況下では難しい

医療政策では「質」「アクセス」「コスト」の議論があるが、シンプルに「質」と「量」の切り口で。

"土屋了介の「良医をつくる」"というブログから。専門医の「数」を減らさなければ「質」を保てないというエントリで、例によってコメント欄が様々な立場の意見ですれ違っている。

まず、あらゆる議論において、誰がどういう立場で、何を意図して発言しているかが重要であるのは言うまでもない。上記のエントリを読むと、要するに「専門医の定数制」「研修病院の採用枠制限」を行うべきだ、という内容である。土屋先生は御用医師だから、厚生労働省の意図がそうなのだろうとしか言えない。

国民が望むような、健康管理や日常の指導ができる医師、総合的に患者を診ることができる医師

冒頭から「国民が望むような」と書いているが、そもそも国民は、「全ての医師がそうあるべき」と望んでいるのであって、「それを専門とする医師」など望んではいない*1。別の日のエントリで「日本型の家庭医」を支持しているが、厚生労働省が持って行きたい方向の後押しである*2

これは、残念ながら「国民」のニーズではない。私は個人的には「総合医」の充実は社会のニーズであり、医療全体にはプラスだと考えているが、それには患者側に広く認知される必要があり*3、現時点では理想論だ。

総合医」や「認定医」に行っている間に治療が遅れた時、それを粛々と受け容れるほどモンスターは甘くはありません。
(中略)
どうしても『限りある医療資源の効率的な利用』(医療費削減)のために「総合医」制度を推進したいのなら、医療訴訟を禁止する法律でも作るべきです。

「総合医」や「認定医」の誤診が許されない以上、「専門医」に向かう患者の流れは止まらない!

私も専門医指向を良い状況とは思っていないが、患者と医者の両方のニーズ*4を反映した大きなベクトルである。それを、「理想論≒政策の方向性」をいつの間にか「前提」とすり替えて、上辺だけ別方向に誘導するのにはあざとさを感じる。

例えば、アメリカの胸部外科学会の会員は4000人程度です。一方、日本国内の胸部外科医は8000人程度。どうして日本の方が人口が断然少ないのに倍もいるんでしょう。僕はおかしいと思うわけですが、今までのように「数が力」だという考え方でいると、それを疑問に思わないでしょう。

アメリカの医療制度の是非は別にしても、いつの間にかアメリカが理想で、そこからずれた日本がおかしいという論理になっている。

専門医の数が多く、それぞれの経験年数が少なければ、質の維持は大変です。むしろ、専門医の質を維持するためには、このくらいの医師数で抑えるべきではないかという英知が出てくれば、その医師のグループは国民から尊敬されるでしょう。

「○○な人々は賞賛されるであろう」という論調は何の情報価値もなく、もはや社会主義国家の指導者の演説レベルである。

現状の「患者の専門医指向(→専門医へのアクセス維持)」とはベクトルが逆の「専門医の質の維持」を、「皆、腕の良い専門医にかかりたいでしょ」というごまかしで「国民」の意見であるかの様に見せる議論のテクニックは、御用医師として秀逸である。

読み返してもどこか引っ掛るエントリだったが、コメント歓迎としながらも、結局は「専門医の定数制」「研修病院の採用枠制限」を推し進めたいのだ、と読むとクリアになった。言い訳(建前)を並べてるだけで中身がないのだ。

医者相手の記事だし*5、それこそ建前上は政府の諮問を受ける立場なのだから、「マスで考えると、政策レベルではこう」という像を素直に示して、その上で現場の意見を求める形にしておけば良いのに*6

*1:これがダブルバインドであろうかw

*2:臨床研修必修化から始まり、総合医認定制度の導入への流れなど。

*3:マスコミのキャンペーンで総合医がもてはやされているが、大衆は「総論賛成、各論反対」である。「自分は」専門医にかかりたい。

*4:医者のニーズとは、訴訟リスクの回避である。

*5:直接のターゲットは研修医や学生であろう。

*6:「コメントが政府に届くから」とブログでコメントを求めるのも変な話である。